皆さん今日は。
阿蘇では霜注意報が発令されるなど、まだまだ朝晩は肌寒い日が続いています。テレビでは日々、桜前線の北上が伝えられていますが阿蘇でも3月末、満開を迎えました。開花は早かったのですが「菜種梅雨」で進まず、その後の花冷えで永く楽しむことが出来ます。この時期、阿蘇は至る所花尽くし。桜、モクレン、コブシ、水仙チューリップ、芝さくら。長かった暗い冬を耐えた命のエネルギーの一斉放出です。阿蘇市体育館通りの桜並木も見事に咲きました。青空のもと暖かい陽光に包まれ桜色が映えます。
米つくりもいよいよ始動です。昨年刈り取った稲の藁を秋と今春、耕して土に埋め込む作業は終え、これからは肥料を播き、田んぼに水を溜める準備に取り掛かります。今は機械化の時代、畔の草刈り、畔塗も機械で出来ます。子供の頃、まだ圃場整備もされてなく、あるのは耕運機だけの時代。面積は小さく、形の不揃いな田んぼ。その畔を維持するために父母は大変な重労働をしていたことを覚えています。畔は田んぼに水を溜める為に大切な物です。モグラやケラの穴から水が漏れると雑草が生え、稲は育たず暮らしに直結した大問題ですが、幅広の頑丈な畔は稲株を植えるスペースのロスになります。また畔は隣の田んぼとの境界線でもあります。そこで毎年、畔の芯を残し鍬で削り、今度は水で柔らかくした新しい土を塗り付けて穴や草の根をすべてなくし、その上に雨で土が流れないように藁をミノのように敷いてまたその上を土で押えて綺麗に上を均し、高さ4、50cm、台形の上の幅20cm、まるで芸術品のように丹精込めて仕上げていました。その時代、周りの皆がそうしていたので当たり前だったのでしょうが現代の私達にはできない仕事です。あるいはそれだけ米つくりに対して正面から向き合っていた、向き合わないと家族を養えなかったのでしょう。その畔は田んぼの作業をする通路になり、また先を尖らせた棒で突いて穴を開け大豆や小豆を蒔くと豆畑になりました。阿蘇では「畔豆」と言い夏休みには太陽に照らされ畔の上にかがんで鎌で豆の間の雑草を1株ずつ根元から刈取る手伝いをしました。今思えば、たった20cmの畔の畑は優れた豆畑でした。米あまりの時代になり、国が推奨し農家は転作補助金が貰えるならと田んぼで大豆を作りましたが田んぼは米を作る為に最適化されています。梅雨前に種を蒔く大豆は湿った畑では育たないのです。また同じ畑に続けて植えると水はけの良い田んぼでも2年目には収量は半分になってしまいます。畔の豆畑は毎年鍬で古い土を削り新しい土を乗せ、梅雨の雨でも畔の上は適度に乾き、真夏の乾燥には田んぼの水が適度に吸い上げられ、秋には豊かな実りがありました。農家は自給自足。味噌や納豆を母が仕込んでいました。特に納豆は稲わらを揃えて「わらすぼ」作りから。【わらすぼをネットで検索してみたら魚の「わらすぼ」ばかり。魚の方は本来のわらで作った「すぼ」(たぶんすぼめる)から来たのもで、本来のわらで作った物は方言でもあり「わらつと」が主流のようで納豆作りにも言葉としても使われなくなり死語になってしまったようです。】わらには納豆菌(枯草菌)が付いていて煮た大豆をわらに包んでおくと自然に醗酵して納豆が出来ます。冬になると母が大豆を煮て温度を手の感で確かめてわらすぼに入れ、冷めないようにくるんでおくと3日くらいで粘りの強い納豆が出来上がるはず。ところが毎回上手くいくとは限らないのが感で作る難しさ。しかし時には思いもよらないくらいに粘りが出て、大喜びしていました。小豆も懐かしい母の味です。前の日から小豆をお盆の上で転がして虫食いを取り除き水につけて、さて何が出来るのかワクワクです。私はぜんざいや饅頭、おはぎが大好物。そんな懐かしい思い出が僅か20cmの畔の上にあり、それを守るために父母が奮闘した事を今では誰も語らなくなりましたが農業にはそんな小さな物語があります。効率的、持続可能な世の中が理想ですが非効率の中に持続可能な事があることも事実です。